プロフィール

影のプロフィール

<浪人時代>

 誰しも「消えてしまいたい」と思った経験が一度や二度はあると思います。年が明け1月の半ばを過ぎると、痛い記憶が降ってきます。
 10円玉を握りしめ寮から歩くこと5分、真っ暗な中にポツンとある電話ボックス、受話器をとり母親に「ごめん、またダメやった」と言ってから嗚咽が止まりませんでした。成人してからまさか自分が母親の前で号泣するとはゆめゆめ思いませんでした。左目から情けなさが流れ、右目からはくやしさが流れ出た気がします。
 私は3度も大学受験に失敗しています。2年間も浪人しました。両親から、おまえは要領が悪いと言われるのが本当にくやしかったです。高校時代、私は色んなことがうまくいかず多感な時期でした。ずっと夢中になっていたサッカーも辞め、成績はクラスで最下位をとったときもありました。高校3年時には、学年全体の中でも下から数えた方が早い成績になっていました。大学進学がすべてではないですが、成績の悪い私をバカにした教師を見返したい一心で、予備校に行きたいと思いました。親はしぶしぶ認めてくれました。
 母親は私とともに銀行に行き、予備校の学費となるお金を下ろし、私の目の前でお金をひろげ、これだけお金がかかるんだと私に教えました。今でもはっきり覚えています、初めて見た数十万円という大金でした。無関心を装いましたが、親に迷惑をかけていることに、なんと自分は情けないのかと思いました。
 それから一心不乱に勉強しました。朝から晩まで勉強しました。浪人一年目、結局成績は改善したものの思ったより伸びませんでした。この頃から、私は成人型アトピー性皮ふ炎を発症し、体中がかゆく、体中をかきむしり、血だらけになっていました。当時のノートを見ると、アトピーの苦しさから、「神様がおるのなら、頼むから勉強させてくれ」と書き殴っています。かゆみと痛みで勉強できなかったからです。追い打ちをかけたのが、かゆみと痛みでうまく睡眠がとれなかったのです。
 さまざまな療法を試したり、いろいろな病院に通ったりしながら、勉強を続けたのが二浪目でした。私の顔を近くで見ると、ニキビ跡のようにボコボコになっており汚いのですが、それは実はアトピーのかゆみで何度も何度もかきむしった後なのです。当時は、顔が1.5倍ぐらいにむくみ耐え難いかゆみがあり、顔が汚く、それを見られるのが嫌で、人と話せなかったことがあります。
 それでもあきらめず勉強を続けましたが、結局、1月半ばにあったセンター試験で過去最低の点をとってしまい、志望した国立大学への進学は夜間部でも絶望的でした。親に謝ろうと思い、10円玉を握りしめ電話ボックスへ行き、「またダメやった」と母親に電話で言ってから号泣しました。申し訳ない思いと、自分への情けなさでいっぱいでした。学費がかかることから私立大学は最初から考えていませんでしたが、母親から最後までやるだけやってみなさいと言われ、国立をあきらめ私立に切り替えました。それで私立の大学に合格することができ、今の自分につながります。もしも合格してなければ、自分で自分の首を絞めていたのではないかと思うほど、当時は追い込まれていました。
 あれだけ苦しめられたアトピー性皮ふ炎も、大学合格を経てから、少しずつ和らいでいきました。まさに「病は気から」なのだと学びました。ただ、大学時代もアトピーでかきむしった顔や体全身の汚さがコンプレックスとして残っていました。政治家を志したのは大学時代でしたが、正直、自分の顔を見られるのがこわくて、「政治家になりたい、しかし顔を見られたくない」という矛盾した気持ちがありました。今ではアトピーも完治しました。
 毎年、年が明け1月半ばになると、この痛い思い出が不意に降ってきます。「かん新聞」の原稿を書きながら、私の隣にいた“痛み”をここに吐露しました。痛みはたくさんのことを教えてくれた気がします。ボウズ頭のハナタレ小僧、靴が嫌いでよくハダシで外を走っていた田舎の小坊主が、痛みを経て、人間らしさへ近づいたような気がします。もちろん、未だ私は青二才ですが、地味に努力する大切さを今は知っています。派手なスーパーマンにはなれませんが、地味に努力し続け、人として信頼のある政治家になりたいと強く思います。

(※この文章は、かん新聞第15号初版(2014年3月)より転載しています。)


<戦国時代(骨肉の争い)>

 『苛烈』という言葉が私の胸に去来するようになったのは、政治家になってからである。2007年、私は27歳で長崎県議会議員に当選した。当選できた理由は、親父が現役の市長だったからである。いわゆる、坊ちゃん選挙である。華々しくトップ当選。しかしその3年後の2010年、親父の2期目の市長選、ここからすべてが変わった。大敗。惜敗ならまだしも、大敗をした。
 権力の座から落ちれば、一気に支持者は逃げていく。唾を吐いてたくさんの人が去って行った。それが、第一の苦しみであった。親父の大敗の1年後が私の2期目の県議選であった。激震が走った。親父が県議選に立候補すると言い出したのである。まさかの骨肉の争いである。情けなかった。くやしかった。親子は完全に断裂した、悲しかった。しかし、私は一歩も譲らなかった。約半年間、何度も何度も醜い言い合いをして、最終的に親父は出馬を断念した。それが、第二の苦しみであった。私のエネルギーのほとんどが奪われた。
 その親子断絶を見ていた、ある有力支持者はもはや松島の親が出ようが子が出ようが、県議選は勝てないと踏んだ。そこで、その支持者はご自身が県議選に立候補した。いわば身内とも呼べる方の裏切りから出馬、もはや私は目の前が真っ暗になるどころか、手足をもがれた状態であった。それが、第三の苦しみであった。苛烈であった。一期目の坊ちゃん選挙から、二期目は苛烈な選挙となった。全マスコミは私が負ける予想をしていた。苛烈を極めた。
 首の皮一枚つながった。誰もが驚いた。僅差で勝ち上がった。これは、もはや私の力ではないと、はっきりと思った。勝たせてもらった。それは支持者の力であり、時の運もあり、私の力ではないとはっきりと思った。自然と感謝の念が湧き上がった。

 現在、33歳、地方議員として7年目に突入した。つくづく思うのは、苛烈な闘いは二度としたくないが、苛烈な闘いは『覚悟』を生む。覚悟は『行動』へとつながる。私は、若くして議員になったため、多くの方々から「これから何十年やるのか」とか、「次は国会議員か市長か」と言われる。私は答える、「政治は、一寸先は闇。今に全力、それのみです。」と。覚悟を持って、政治活動に取り組んでいる。正直、長く政治ができるとも思えない、まさに、今に全力。今できうるすべてを、覚悟を持ってやりきろうとしか考えていない。
 覚悟からの行動は、成果に結びついている。長崎県議会は、議会基本条例の制定や全国初の通年議会の導入、議員提案条例の制定等を実施している。結果、「議会改革度が、全国5位!」驚くニュースが、日本経済新聞社の産業地域研究所による『日経グローカル』によって出された。長崎県議会史上初だろう、議会改革度が全国のトップ5に入った。圏外からの急上昇で全国的にも注目をされた。
 一方、若者らしく独自の行動をしていこうとも考え、地元の若い方々と『走男(ソーメン)の会』というのをつくった。私の地元、南島原市の特産品は島原手延べそうめんである。走男(ソーメン)の会は、走ることと島原手延べそうめんをPRすることを目的としている。7月7日七夕は「そうめんの日」ということもあり、先日(6月29日)は、南島原市から長崎県庁までの約85キロを若者10名でタスキをつなぎ、知事にそうめんを届けた。新しいまちづくりの一つの形だと私は思っている。
 私の議員としての存在意義は、新しい発想による行動と理想を語ることであると思う。前例踏襲なら、私は必要ない。現実的になりすぎて、選挙に勝つことだけを目的にするなら、私は必要ない。『苛烈』を経て、『覚悟』を胸に刻んだ。これからは、理想を掲げ、新しい発想でどれだけ『行動』できるかどうかだと、私は考えている。苛烈→覚悟→行動の3Kで駆け抜けたいと思う。

(※この文章は、明治大学しゃふく通信『3K議員~地方政治の現場から~』(2013年9月号)から転載しています。)


<私は世襲議員>

 私はよく二世議員と非難されますが、二世議員ではありません。
私は五世議員です。
 マスコミのように言うなら、イメージ最悪です。マスコミが伝える、世襲=能なしというのが嫌で、くやしくてたまりませんでした。マスコミの影響は巨大で、それは政治の世界にとどまることを知らず、商売の世界でも建設業でも農業でもなぜか二代目以降は、あまり評価が高くないことがあります。商売、建設業、農家の方々で二代目、三代目のすばらしい方を私はたくさん知っています。
 マスコミの力はすごいもので、世襲=悪というイメージがつくられ、だからこそ私は立候補してはいけないのではと、真剣に悩んでいたことがあります。また、もしも仮に、立候補したら、ものすごく叩かれるという恐怖があり、立候補の勇気が持てなかったことがあったことを、正直に告白します。

 私は五世議員です。
曽祖父が村の議員でした。何百人の村だったかは知りませんが、村議会議員でした。
祖父が町長でした。有家町長でした。しかし、二期目の選挙で負けました。
母方の祖父が県議でした。十期務めたと聞いています。
父が市長でした。しかし、二期目の選挙で負けました。
そして、私です。

 あまり言いたくないことですが、実は、松島家の直系で言えば、松島家は落選の歴史です。祖父は二期目の町長選挙で負けた後、落選のショックからすぐに亡くなりました。50代でした。若死にです。父は二期目の市長選挙で負け、何とか生きていますが、ショックを隠し切れません。
 勝ちがあれば負けがあります。良いときがあれば悪いときがあります。すり減るものはたくさんあります。しかし、覚悟は研ぎ澄まされます。なぜ自分は政治家になりたいのか、なぜ政治を志すのか自問自答します。私が政治家を志すのは、政治家としての祖父の存在があったからです。私が生まれたときはすでに他界しており、一度も会ったことがないのですが、ある方に、ある時、こう言われました。
 「おまえんとこのじーちゃんな、うちが台風で被害におうたとき、いの一番に駆けつけてくれた、そいばおいは忘れん」と。その方いわく、着の身着のままでバイクのカブで駆けつけたらしく、それを聞いて私はうれしくてたまりませんでした。その方の心の中に、しっかりと政治家のじーちゃんの存在があり、まるで、私自身がじーちゃんと会えたかのような心境になりました。
 そして、思いました。こがんなりたか、と。わたしも、じーちゃんのように、スーツでかっこつけるのではなく、着の身着のまま地元の人のために駆けつけるような政治家になりたい、と思いました。そんな地域への貢献がしたいと思いました。これが、私が政治家を志す一つの原点です。だから、たとえまわりに何と言われようが、世襲だろうが、五世だろうが、堂々と言おうと思います。
 私が政治家を志す原点は、世襲であるがゆえです。じーちゃんのようになりたいと、そう強く思うのです。祖父の生き様に、素朴な志を感じるのです。

(※この文章は、かん新聞第15号(2014年3月)から転載しています。)